ビッグコミック最新号に 今話題の松本零士御大の「銀河鉄道999」が掲載されているのですが、これがまた 近年の御大の言動を知る我々には非常に重い意味を持つように思えてならない内容でございました。そんなわけで引用。
…やっぱりこれって、
この星の海に生きる知的生命体には他人の
著作物 を盗み喰いして生きる邪悪な者が無数にいる。
…という意味なんでしょうか。
さて そんなわけで松本先生の話題が出たついでに、やや時期を過ぎた感がありますが著作権についての個人的意見を書かせて頂きます。
著作権の保護期間を長くするべきか、という点が議論の中心になっているようですが、正直私としてはそれはどうでもいいです。個人的には短い方がいいですが、「それは私が『制作者』の側にいないからそう思うのではないか?制作者の側にいたならば延長を望むのではないか?」という思いもある為です。…ですが仮に私が制作者の側にいたとしても、保護期間を「著作者の死後○年」とする現在のルールは良くないと思う事でしょう。保護期間は著作者の死ではなく、(現在の「団体名義の著作物」の場合同様)著作物の公開を基点とするべきです。
(まぁ、この方が管理が楽だとかの実務上の理由が大きいのかもしれませんけど。昔の作品はいつ公開されたかなんて記録してないのが多いでしょうね、諸星先生の「辛口怪談」も初出不明だそうですし。ですが記録媒体が発達した今ならば それ程面倒な事でもないでしょう。)
突然思い出話を始めますが、ある時 江戸川乱歩の短編について書かれた記事を読んだ私は、その短編を読んでみたくなり青空文庫にアクセスしました。「江戸川乱歩=小栗虫太郎より少し前の人」であり、「小栗虫太郎より前の人だから著作権は切れているに違い無い」という妙な論理が私にはあったのです。
ところが目当ての作品はおろか、乱歩作品自体がまったく見当たりません。そこでもしやと思ってWikipediaで調べたところ、乱歩の没年は1965年なので著作権はまだまだ存続中でした。…さて、その事に気付いた瞬間 私は何を思ったか?
…「もっと早く死んでいてくれたらよかったのに。」ですよ。次の瞬間 なんて事を考えているのかと自分が嫌になりましたが、それはともかく私は別に乱歩が嫌いなわけではありません。(というか実は殆ど読んだ事が無いので好き嫌い以前の問題。)にもかかわらず、嫌いなわけでもなく そして偉大である事は理解している人に対し、思わずそんな事を考えてしまったのです。
はっきり言って、著作権は「制作者」側以外の人間にとっては殆ど直接的な利益は齎しません。勿論「著作物が守られる事で制作者のやる気が上がり、その結果良い作品が生まれる」等の間接的な利益は無いでもありませんが、実際そこまでの影響を日常的に考えている人は殆どいないでしょう。
著作権は無くなった方が多くの人にとって直接的な利益に繋がる。そして個々の作品の著作権は、現状の「著作者の死後○年」というルールでは 著作者が早く死ねばそれだけ早く消滅する。つまり多くの人にとっては作者が早く死んだ方が得なのです。…全ての人がそんな事を願うとまでは言いませんが、確実に現在のルールでは 悪意も無しに作者の早死にを願う人間が生まれるのです。
作者が長生きしてくれた方が 死ぬまでに良い作品を多く生み出すからその方が得ではないか、と反論される方もいるでしょう。確かに作者が良作を生み続けている間はそうでしょうが、はっきり言って いつまでも良作品を生み続ける作家など滅多にいません。大抵の作家は若いうちこそ良作を生み出しますが、年とともに腕が鈍るなり才能が尽きるなり時代に合わなくなるなりして、消えるか老害となるかのいずれかです。そうなった瞬間、その作家の存命は「得ではない」どころか明確に「損」になってしまうのです。
著作権は基本的には「制作者」側の為の権利でしょう。ならば、良作を作れなくなった途端に早死にを願われるような現状のルールが制作者の為になるとは、私には到底思えないのです。
…ところで松本先生、年若くして亡くなった友人の子どもを見るたび胸が痛む
のならば、「年若くして亡くなった人(の家族)」と「そうでない人(の家族)」の権利を同等にするべきではないですか。死を基準とする限り、保護期間が100年になっても200年になっても「年若くして亡くなった人の子孫」が「そうでない人の子孫」より不利なのは変わりませんが。…ああ、保護期間が無限になれば同じになるので無限にしろって事ですかそうですか。
先日デパートに行ったところ、非常に驚くべきものを目にしました。「ホワイトデー献血はこちら」と書かれた幕が張られていたのです。いやはや、流行物にはとんと疎い私ではありますが、まさかホワイトデーには血でお返しをするのが昨今の流行りであったとは。寡聞にして存じませんでした。しかし考えてみれば、バレンタインとは 聖ヴァレンティヌスの処刑日であり、さらに「聖バレンタインデーの虐殺」などの事件の起こった日でもあるわけで、血液とは切っても切れない関係であると言えます。そう思えば、ホワイトデーには血でお返しをするのは道理に適った事と言えましょう。
よく「ホワイトデーは3倍返し」といいますが、質量で3倍なのか体積で3倍なのかは判りませんが、どちらにしろバレンタインに沢山貰った人は大変ですね。1.7リットル以上の血液を失うと人は死ぬそうですが、その1/3以上のチョコを貰ってしまった人は、アカギのように早い内に血を抜いておくなどして準備しておく必要がありますね。新しい血液がどれくらいのスピードで生成されるのか知りませんが、あまりに大量のチョコを貰ってしまったら、バレンタインからの1ヶ月では間に合わないでしょう。モテる男は予めバレンタイン前から血を定期的に抜いておく必要がありますね。モテる男は大変です。
準備をせずに大量のチョコを貰ってしまったら危険です。寧ろ逆に、嫌いな人に大量のチョコを渡すのが流行るかもしれません。後日変死した男性の遺体が見つかっても、検死官からすれば「自分で自分の血を大量に抜いて死亡」でしかなく、ちょっと変わった自殺にしか見えません。しかし実際には1ヶ月前からの計画的完全犯罪です。「ホワイトデー殺人事件」。小説が一冊書けそうです。書き上がったらメフィスト賞に応募しようと思います。
そんな事を考えていたら、ホワイトデーに反対するデモが行われたというニュースを目にしました。 そりゃぁこのような命懸けの行事、反対する人が出るのは当然と言えましょう。寧ろ、何故イラク戦争などに反対するデモには多くの人が集まったのに、戦争同様に多くの罪の無い命が失われるホワイトデーに反対するデモには20人しか集まらないのか実に不思議ですね。
しかし敢えて私はこのデモに参加した人に言いたい、「甘えるな!」と。恋愛とは常に命懸けなのです。悲恋の行く末は死であると近松門左衛門やシェイクスピアの時代から決まっている事ですし、ベタなプロポーズの言葉に「同じ墓に入ろう」というのがある通り、常に恋愛は死と隣り合わせなのです。正気にては恋愛ならん、恋愛はシグルイなり。
とかなんとか。
成績が上位5%に入る優秀な生徒の場合に限って、ヘビメタなどの過激な音楽はリラックス効果をもたらすことを突き止めた。
キャドワルダー氏によると学業が優秀ではない学生がこれらの音楽を聞いた場合には却ってイライラが増してリラックス効果どころかまったくの逆効果になるとも述べている。
我々は成績が上位5%に入る優秀な生徒
であったようです。そうでなかったとしたら、きっと日本の「成績」の調査計算方法が正しく知性をはかれるものではないのです。うん そうだ。そうに違い無い。
この調査の信頼性とか 「ヘビメタ」言うなとか そのへんはまぁ置いておく事にして、成績が上位5%に入る優秀な生徒の場合に限って、(中略)リラックス効果をもたらす
の「限って」が重要ですね。つまりは「ヘヴィメタルを聴いてリラックスするならば、必ず成績が上位5%に入る優秀な生徒である」という法則が成り立つ事になります。
そうなると教育熱心な親たちが、子供に小さい頃からヘヴィメタルを聴かせ慣らす事で ヘヴィメタルを聴くとリラックスするような子供に躾けようとする事が考えられます。関西テレビあたりが特集を組んでくれればバッチリです。スーパーから納豆が消えた次は CDショップからメタルCDが消えます。そうすれば十数年〜数十年後にはメタル人口は現在の数倍以上になっている事でしょう。未来は実に薔薇色だ!
ところで、PISA(Programme for International Student Assessment)というOECDによる国際的な生徒の学習到達度調査で、フィンランドが素晴らしい結果を出している事を御存知でしょうか。
これを日本の研究者達は「フィンランドの教員資格は大学院卒業の必要があるためではないか」などと分析しているようですが、私が見たところ これはフィンランドが多くの良メタルバンドを輩出している事と無関係ではないのではないだろうかっていうかもうメタルのおかげに間違いありません。うん そうだ。そうに違い無い。
そんなわけで、教育再生を内閣の最重要課題と位置付ける安倍内閣は、まずは音楽の時間にメタルを取り入れる事から始めてはいかがでしょうか。あといっそEvil Masquerade「Kimigayo Wa Chiyoni」か聖飢魔II「KIMIGAYOは千代に八千代の物語」を(以下右翼に怒られるので略)